I wanna be your dog.
銀髪の鬼の足元に膝を付き、その軍門に下ってから半年がたつ。 今でもあの日のことは鮮明に思い出すことが出来る。屈辱に震えていた身体も、膝下に感じた乾いた土の感触も。だが一番脳天に焼き付いて消えねえのは、下から見上げた元親の表情だ。長い睫毛に彩られた青の瞳が、楽しげに細められる。口の隙間から見えた鋭い犬歯に、ぞわりと鳥肌がたった。 その時感じた震えの意味を、俺は未だによく理解できねえ。ただ分かっているのは、その勝気な笑みをいつか絶対に切り崩してやりてえと感じたことだけだ。 季節は梅雨を向かえ、ここ一週間雨は途切れることなく降り続いていた。 梅雨って季節は案外いいもんだと思う。嫌ってるやつも多いみてえだが、俺は好きだ。雨が降ると空気が澄んで肌に気持ちがいいし、襖越しに聞く木の葉を叩く雨音ってのも中々趣がある。 だが、それも一人じゃつまらねえ。梅雨が嫌いらしい元親のしかめ面を眺めながら、雨を楽しむのが一番いい梅雨の過ごし方に決まってる。 俺は渡り廊下の湿った床板を足の裏に感じながら、元親がいるだろう宝物庫へと向かった。退屈する捕虜の相手も大将の仕事だろうと、一人ほくそ笑みながら。 屋敷の奥深くにある宝物庫の扉は薄く開いて、中の明かりが漏れ出ていた。普段扉の前で宝の警護をしている番兵の姿は、今日は見えないようだ。たぶん元親の奴が下がらせたのだろう。元親は自分がこの部屋にいるとき、周囲に人が近寄るのを好まないようだった。その理由は俺にも何となくだが理解できる。元親みてえな、どんなに人と触れ合うのが好きな人間でも、時には一人になりたい瞬間ってのがあるもんだ。 だが、それが俺に何の関係があるってんだ? 俺は一瞬も躊躇うことなく、分厚い扉を押し広げる。扉の隙間から覗く、だらしなく着物を着込んだ鬼の横顔。自然と唇が笑みの形を刻んだ。身を置く状況が変わろうとも、俺が俺であることに変わりはない。俺はいつもみてえに自分がやりたいようにやるだけだ。 「……ここには入るなって言っておいたはずだぜ?」 天井に届きそうなほど高く積まれた金銀財宝の山に腰掛け、物憂げに肘を付いた元親が、ちらりと目だけをこちらに向けた。その反応はやはりいつも通りで、不機嫌に眉を寄せようとさえしない。つまんねえ奴だぜ。そう不満を言いたいとこだが、表面の余裕ぶった笑みを崩すつもりはねえ。 「まあそう言うなよ、元親。アンタが俺を放っておくのがわりい。暇すぎて死ねそうだぜ」 「じゃあさっさと死ねよ。そしたら、死体になったお前をこの部屋から引きずり出してやる」 元親が表情を変えもせず言い放つ。 その研ぎ澄まされた氷みてえな青い目玉、やっぱり嫌いじゃねえ。 「おーおー、怖えな、女王様は。機嫌直せよ、可愛い顔が台無しだぜ?」 悪びれもせず大げさに肩を竦めると、元親から少し離れた位置まで歩み寄り、背を壁にもたれかけさせる。腕を組んで当分ここから動く気がないことを示すと、元親は小さく鼻に皺を寄せて少しだけ顔を反らした。 玉座に座るようにして傲慢に足を組む元親の姿は、妙に人の視線を引き付ける華みてえなものがあった。引き結ばれた唇のふくらみなんか、思わずその中に隠れた甘い蜜を想像しちまいたくなる。だが、その香りに引き寄せられて蜜を吸おうとすれば、たちまち全身に毒がまわり体の自由を奪うだろう。俺は元親のそういう所が気に入っていた。毒と花びらで身を着飾って、お高くつんと顎を上げる仕草も嫌いじゃない。 その澄ました顔が俺に捻じ伏せられる瞬間を想像すると、いつもゾクゾクした興奮が背筋を駆け抜ける。 「アンタ、雨の日はいつもここに居んだな」 「ここは湿気が届かねえから雨の日でも涼しいのさ。お宝の中には掛け軸なんかもあるからよ、腐らねえよう湿度の管理はちゃんとしてる」 元親が掛け軸?巻物を抱えて喜ぶ元親の姿には違和感があった。元親には掛け軸なんて高尚な芸術品なんかよりも、キラキラした派手な宝の方がずっと似合ってる。 「アンタが掛け軸?そういうのに興味があったのかよ」 「まあそれなりにな。あんまり数はねえが、それでも一級品が揃ってるぜ。国中まわって手に入れたのもあれば、大陸との交易で手に入れたのもある」 知らなかったぜ、と目を見張る俺に一度視線をやってから、元親は何もなかったみてえに身体の近くにあった首飾りへと目を落とした。銀で造られた繊細な装飾の上を元親の長い指が辿っていく。目を伏せて、俺を視界に捉えようとしない元親に少しだけ苛立つ。そのまるで俺への興味が失せたとでもいうような態度がやけに鼻についた。俺を馬鹿にすんのはいい。だが、俺から視線を逸らすのはだけは我慢できねえ。 元親の注意を引き戻したくて、わざと挑発するような言葉を選ぶ。たまにはアンタも怒ってみりゃいいんだ。 そして怒りに普段の余裕を失った瞬間、俺はすかさず飛び掛って、その首筋に歯を立ててやる。 「No interesting joke.アンタに掛け軸の濃淡なんざ、ちゃんと理解できんのかよ?アンタみてえな奴には、金ぴかの安っぽい宝がお似合いだぜ」 一瞬無表情になった元親に、溜飲が下がる。さあ怒れよ、元親。その澄ました顔が崩れたら俺が床に引き倒してやる。そして、地面の上から俺をきつい目で睨み上げてみろよ。 だが元親はどんな時でも元親だった。尖った顎の先端が、挑発的に跳ね上がる。 「おい、ガキ。主人に対して口のきき方がなってねえんじゃねえのか?捕虜は捕虜らしく、主の機嫌伺って犬みてえに尻尾振ってりゃいいんだよ」 目を細め、花の下に潜む鋭い棘のような顔をして元親は言った。手の平で半分隠された、弧を描く唇。その傲慢できれいな元親の微笑みに見惚れ、俺は無意識の内に唾を飲み込んでいた。 自分の喉が上下する動きにようやく気付き、全身がカッと熱くなる。 俺は何やってんだ。追い詰めようとして、なに自分の方が食われそうになってやがる。 そう歯噛みすると同時に、俺の心は自らの負けを苦味と共に感じ取っていた。屈辱だった。誰かに屈することほど、俺が嫌うものはねえ。身体の底からふつふつと怒りが沸き上がって来る。だがそれとは逆に、頭の芯からはすっと熱が引いていった。思考が冷たく冴えていくのと同時に、顔からも表情が失せる。俺は今きっと、静かな表情をしてる。ほんの少しのきっかけで残酷に変化する、嵐の前の静けさだ。 俺は短く笑った。その声の変化に気付いたらしい元親が、かすかに眉を寄せる。 「……犬、ねえ。アンタ、俺に犬になって欲しいのか?犬みてえにハアハアだらしなく舌を出して、媚を売って欲しいのかよ?」 「―――ああ、見てえな。アンタが俺の足元に這いつくばって、俺に頭を撫でられて嬉しそうに尻尾を振ってるところが見てみたい」 平静を取り繕うとするような元親の声に、口元の笑みが更に深くなる。その気配に押されるかのように、元親がかすかに身じろぎをした。 腕組みを解いて壁から身を離し、元親の座る黄金の玉座へと近寄る。元親は俺の視線を正面から受け止め、睨むように見つめるが、俺はそんなものに騙されやしなかった。その着物の下の神経全部が、毛を逆立てて猫みてえにびくついてるのが俺にはちゃんと分かってんだ。 小さく舌を出して乾いた自分の唇を舐め上げる。その粘つくような動きに、元親が小さく息を呑んだ。 「Hey,元親。いや、ご主人様って呼んで欲しいんだったか?」 「―――何が言いてえ」 「アンタのご希望通りにしてやる。よく見とけよ、ご主人様」 警戒も露わにする元親を視界の端に捉えながら、見せ付けるようにゆっくりと膝を床についた。青い瞳が信じられないものでも見るかのように大きく見開かれる。 そうだ、その顔だぜ元親。そのままもっと俺に揺さぶられてくれよ。そのためだったら、俺はこんなことぐらい幾らでもできる。 見開かれた瞳に一瞥をくれてから、目の前に組まれた白い指先にそっと口付ける。咄嗟に逃げようとする足首を掴み、親指を根元まで口に含んだ。 生暖かく濡れた口内に包まれて、抱えた元親の足がびくりと震えた。顔を前後させて手の指に比べ短いそれを思う存分しゃぶれば、唾液に濡れて滑りを増す。口から指を引き抜いて、べたつく糸を舌に垂らしたまま、思い切り指の間に舌を潜り込ませた。頭上で元親の呼吸が引き攣れる。指の間の柔らかな皮膚を舌先でなぞりながら、小刻みに跳ねる指の反応を楽しんだ。熟した赤い生き物が皮膚を這いずりまわる様子を、元親はどんな思いで見てるのか。歪む元親の顔を想像すると、じわりと目の奥が疼いた。 急に我慢できなくなり、唾液まみれの指裏を下から舐め上げながら、目だけを動かして頭上の元親を覗き見る。 ――何やってんだよ。アンタがそんな顔するはずねえだろ! 赤く高潮した頬。固く目を閉じ、震えながら手の甲に歯を立てる元親は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。喉に何か詰まったかのようにぎこちなく息を吸い込み、胸を膨らませる。肩を震わせる元親を、俺は固まったように身動きもできず、ただ見上げていることしかできなかった。元親がゆるゆると手の甲から唇を離す。 「…っ、本当にやってんじゃねえよ……」 「元親―――」 「お前が、伊達政宗がこんなことする訳ねえだろっ……」 感情が高ぶったのか、目の端にじわりと涙が浮かび、再び握り締めた拳を口にあてる。 俺は初めて見る元親の様子に混乱し、どうすればいいのか全く分からなかった。だがそれでも、その瞬間身体を駆け抜けた元親を抱きしめたいという衝動だけは本物だった。理由はやっぱり分からねえ。元親の伏せられた瞼から一滴の涙が零れ落ちる。立ち上がり涙を拭おうとすると、元親が耐え切れないといったように身を振った。 「止めろ!俺に触んじゃねえ!」 「なんで泣いてんだよ。ちょっとした悪ふざけだろ?これぐらい、いつものアンタなら鼻で笑い飛ばしてるところじゃねえか」 「うるせえ、黙れよ!もうそれ以上しゃべんな!」 俺に触られるのを嫌がる元親に、ますます頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。なんだよ、何が言いてえんだよ。反射的にその腕を掴もうとするが、勢いよく手を打ち払われた。その痛みで急激に頭に血が昇った俺は、強引に元親の身体を引き寄せようと着流しの襟元に手を伸ばした。元親がそれを避けようと、身体をひねらせる。 その激しいやり取りに耐え切れなかった宝の玉座が、とうとうなだれを起こした。溢れ出すまばゆい輝き。一つの流れとなって、大きく崩れ落ちていく。咄嗟に俺の袖を掴んだ元親の手と、滑り込んでくる腕の中の体温に、現実が遠くなった。崩れていく金貨や宝石たちの音がやけに遠くで聞こえている。チャリン、と最後に響いた硬貨の音を合図にするように、元親が顔を俯かせたままピタリと俺の胸に額を付けた。握られた袖を掴む指に縋るような力が込められる。 「―――どうせ、俺のものになんかなんねえくせに……!」 歯を食いしばるようにして、元親が喉から声を絞り出す。その声はじわり俺の中に溶け込んでいき、俺の心臓を一打ちした。 ああ、こいつはなんて可愛い奴なんだろう。 胸を満たす思いにせかされるように、元親をきつく抱き締めた。今度は元親も抵抗せず、ただ静かに俺の腕に抱かれている。 目を閉じると、元親の鼓動や息遣いをより近くで感じた。俺たちの身体のリズムが溶けて、徐々に重なり合っていく。その過程にじっと耳を澄ませながら、俺は思う。 この音になら飼われてやってもいい。 この温かな体温になら、首輪を付けられるのも悪くないかもしれねえ、と。 (08/0609) 実はお互いにラブでしたっていう…。 たぶんどっちも相手を飼いたいし、飼われたいと考えてるんだと思います。 |