エスキャピズム


確かめるようにゆっくりと、政宗の身体を指先でなぞった。喉仏の浮き出た首。刀を振るうため鍛えられた肩。どれも何度も触れたものだ。見知った身体だ。それでも遠慮がちに指が動くのは、まだ感情が追い付いていないからだろう。政宗は黙って触れることを許している。元親を見つめる眼の縁には、未だ淡く青白い影が残されていた。

伊達政宗、戦にて負傷。急ぎ奥州に来られたし。
初めてその知らせを受けた時は、ただ文字が意識の表面を撫でていっただけだ。ひどく乱れた小十郎の字が全てを物語っていたが、元親はそれを握り潰すことで視界から消した。分断された脳の一部が勝手に神経に鞭を加え、足裏が地を蹴る音を耳が自動的に捉える。
現実が遠い。木製の船と潮風の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込みながら、元親はひたすら同じ事を感じていた。家臣たちが話し掛ければ、笑ってみせる事さえあった。


しかし今は全ての感覚が徐々に溶け合い、光を放ち、どうしようもなく瞼を焦がしていた。薄く血の滲んだ包帯と、部屋から微かに香る消毒用の酒の香りと、障子越しに差し込む白々しいまでの日の光と、―――それらの中で普段通りに口角を持ち上げてみせる政宗は、記憶の中の姿と何ら変わりない。
大丈夫。もう大丈夫だ。布団の脇に膝を付き、普段より幾分か萎えた身体を触り続けた。この数日のあいだ唇が擦り切れそうなほど呟いた言葉を、今度は胸の内で繰り返す。生きてる。大丈夫だ。限界まで張り詰めた意識の糸が緩んでしまわないよう目頭に力を込めたが、それも指先が胸に巻かれた包帯に辿り着いてしまえば、もう駄目だった。白い布の上に浮かび上がった、乾いた血の痕が鮮烈に眼球を焼く。
じわりと何かが頬を伝い、ぱたぱたと膝の上に落ちた。チカ。政宗が囁く。涙を拭う指の温かさに、それまで何処かに隠されていた感情が一気に溢れ出した。抉るような痛みが胸を貫き、元親はただ声もなく身体を震わせる。
政宗、お前が生きてて良かった。大粒の涙を落としながら、それでも嗚咽をもらすまいと懸命に唇を噛む元親を引き寄せ、政宗はその首筋に顔を埋めた。俺もまたアンタに会えて良かった。耳元に囁く声が新たな涙を生み、政宗の肩口を濡らし続けた。

元親は肺いっぱいに政宗の匂いを吸い込む。僅かに血の混じった嗅ぎなれた香りに、ようやく世界が戻ってきた気がした。




(08/1007)