口付けに花束を 「よう、今日は珍しい恰好してんな。何かあったのか?」 部屋に入ってきた政宗は、まるで映画の中から抜け出してきたような恰好をしていた。丁寧に仕立てられた質の良いスーツ、軽く弛められたネクタイ。けぶるタバコの香りと、グラスの中に溶ける氷の音を連想させる。どこか気だるげな艶を含んだその姿は、今すぐ写真に切り取って額縁に飾っても何ら遜色のないように思えた。 「高い店で飯食って来た」 政宗が元親の向かいに腰掛けた。なめらかな動作で組まれる足に、元親は目新しいものでも見つけたように目を細めた。 「だからか。お前のスーツ見んの久しぶりだな」 「だろ?久しぶりすぎて、着る時に一瞬ネクタイの結び方忘れちまってよ。本気で焦ったぜ」 「はっは、マジかよ!いくらなんでもそりゃねえぜ」 「忘れちまったもんはしゃあねえだろ。ま、ちゃんと思い出して自分で結んだけどな」 「そりゃ良かった。伊達政宗はネクタイが結べないってことになりゃ、小十郎さんが本気で泣くぜ」 「アンタは?」 「俺は別に気にしねえ」 「そうか」 そう言っておかしそうに目を伏せる姿は普段と何も変わらない。ただ何かが違うとすれば、それは見慣れないスーツと、右手に握られているバラの花束のせいだった。 普通、バラを持つにはそれなりの年齢が必要だ。ダイアモンドの指輪は年老いたしわの手に、ガラス玉のペンダントは少女の透明な首筋に。それぞれの年代で付けるに相応しい装飾というものがある。 しかし政宗に関していえば、バラの花束を持つのに何の違和感もなかった。バラは政宗の手に親密に寄り添い、何らはばかることなく奔放に花弁を広げている。長年連れ添った片割れ同士のように、二つを遮るものは何もない。 「で、そいつは何なんだ?」 元親は顎で花束を指した。実は政宗が部屋に入って来た当初から気になっていたのだ。今日はどちらの誕生日でもないし、かと言って特別な日という訳でもない。まさか自分にという事もないだろう。 政宗は一瞬何のことか分からないように眉を寄せると、ああ、これのことかとバラの花束を持ち上げた。 「アンタに買ってきた」 事も無げにそう言って、あっけに取られる元親へと花束を差し出す。 「……こいつを、俺にか?」 反射的に受け取ったはいいものの、バラは余りにも甘く、華々しすぎた。嬉しくない訳ではないが、まさか自分に、というのが正直な本音だ。女性に贈る分にはいいだろう。きっと喜ばれるはずだ。だがいくら付き合っているとはいえ、男の自分に贈るには些か不釣合いのように思えた。それに今まで花を貰った経験などなく、どう扱えばいいのかさっぱり分からない。 元親が複雑な顔をして花を見つめていると、カチッという金属音が響いた。重い火花が弾ける音、微かに吐き出される息。苦い香りが漂ってくる。 「花より団子のアンタだ。贈っても喜ばねえってのは分かってんだがな」 形の良い薄い唇にタバコを挟みながら、政宗が言った。その目はどこか遠くを見つめており、白い煙の中にかすんでいた。 「今日、店で飯食って来たっつったろ」 「ああ」 「その店に来てたカップルの女の方が丁度誕生日だったらしくってな、男が女には秘密でケーキの準備をしてんだよ。で、店の方からケーキと一緒に花束が運ばれて来るだろ。したら女が感激して泣き出すんだぜ。そんな女を見て男も慌て出すし、女の泣き声はでかくなるしで、煩くてこっちはいい迷惑だった。それでうんざりして店を出たはずだったんだが、何でかずっと嬉しそうに花束を抱える女の姿は頭の中に残ってた。それでここに来る途中、花屋の店先でこいつが―――」、政宗は一度タバコを深く吸い、花束へと視線を走らせた。「花瓶いっぱいに活けられててよ。したらアンタの顔が浮かんで、気がついたら店員に花を包むよう頼んでた。女相手でもあるまいし、花なんざ贈ってもどうしようもねえってのにな」 淡々と言葉を紡ぐ政宗は、話しながら自分の言動の意図を探っているように見えた。政宗自身、何故自分がバラを買ったのか分からないのだろう。 「ただ今にして思えば、俺はたぶん―――」 芯の強い瞳が元親に向けられた。 「たぶん、アンタの笑う顔が見たかった。別に花じゃなくてもいい。俺が贈った物を受け取って、嬉しそうに笑うアンタの顔が」 むせかえるような芳香が弾ける。蕾が花開き、新鮮な香りが漂い始めたような気がした。 元親はゆっくりとその香りを吸い込み、小さく笑った。この花を抱えた政宗はいったいどんな気持ちでここまで来たのだろう。それを想像すると、先ほどまで見慣れなかった花が急に親しげに見えてくるのが不思議だ。我ながらひどく現金だと思う。 「―――まあ、悪くねえな」 「What?」 「仕方ねえから受け取ってやるっつってんだよ」 驚く政宗をよそに、元親は何かいい入れ物はないかと部屋を物色し始めた。気を抜けば、今すぐ意味のないメロディーが口先から溢れ出てしまいそうだった。とりあえずキッチンのシンクに活けようかと蛇口を捻れば、後ろから近付いてきた政宗がそれを邪魔する。 「Hey, darling.つれねえセリフの割りに随分ご機嫌じゃねえか」 狙ったかのように耳元で囁かれた。自分はさっさと花を活けてしまいたいのだが。いささかうんざりした気分で振り向くと、そこには案の定指先でタバコをねぶる政宗が立っていた。 「お前の気のせいだろ」 「そうは思えねえが」 「気のせいだ。じゃなきゃテメエの目が悪ぃ」 「Ha、アンタも言うねえ…」 政宗は口角に咥えていたタバコを取ると、シンクに灰を落とした。そのまま縁に掛かっていた元親の手を覆い、指を絡ませる。 「おい、この手は何だ」 「わざわざ訊くのは野暮ってもんだぜ?」 「生憎と俺は今そんな気分じゃねえんでな。いいからさっさと手ぇどけろ」 「アンタも可愛くねえなあ。花の事といい、ちったあ素直に喜んで見せたらどうだ?」 「喜んでるじゃねえか」 「どこがだ」 「ほら、」 目の前にあるネクタイを引き寄せる。そしてそのままタバコの染み込んだ苦い唇へと口付けた。 「な。喜んでんだろ?」 突然の思い付きはどうやら成功したらしかった。政宗の間の抜けた表情に思わず噴き出す。驚くだろうとは思っていたが、まさかここまでとは。中々この男にも可愛いところがあるらしい。 「はっは、お前もいい顔……」 「チカ」 その声色の変化に気付いた時は既に遅かった。目を見張っている内に顎を掴まれる。政宗の形の良い指が、ゆっくりと唇の表面をなぞった。 「…やるじゃねえか。今の、すげえキた」 掠れた声を耳に捩じ込まれ、背筋に痺れが走る。思わず政宗を見れば、腰の芯が疼くような表情で口付けられた。何度も啄み、軽い音を立てて離れていく唇は政宗のものと思えないくらい熱い。それが徐々に深くなるたび、元親の息は上がっていった。離れようとしても離れられない。苦しく、頭が眩む。しかし元親と同じくらい口内を貪る政宗の舌にも余裕はなかった。背に添えられた指が、痛いほどきつく身体を抱き寄せる。 「…っ、おい…政宗」 「なあ…、嬉しかったんだろ?ちゃんとアンタの口から聞きてえ…」 唾液まみれの舌が首筋をなぶる。何度も唇を落とされ、喘ぐような吐息が口から洩れた。咄嗟に政宗の髪を掴む。そんな自分に気付き、急に笑い出したくなった。自分も大概こいつに惚れている。たまらなくなり、元親はシャツの襟元を掴んで今度は自分から口付けた。ぶつかるようにして唇を食み、呼吸を混ぜ合う。 「はっ…もう答えは分かってんだ…。それでいいだろ…?」 「No.ちゃんと聞きてえ…。チカ、言えよ…」 しつこく耳の付け根に口付けながら、政宗が呟く。背中にあった政宗の手は徐々に下へと降り始めていた。腿の辺りをさまよい、また腰に戻っては、確実に神経を焦らしていく。元親はその刺激から逃れるように目の前の唇に口付けた。腰の震えを楽しむように、政宗が口付けを深くする。まさぐられる身体が崩れ出していく。政宗が足の付け根を爪で掻いた。膝から力が抜け落ち、元親はずるずるとシンクにもたれ掛かった。 室内に荒い呼吸が響く。腰に回された腕は強く、頬に当る呼吸は熱く乾いていた。 「チカ…」 「政宗、止めろって…」 燃え尽きない余韻を燻ぶらせて、互いの鼓動を重ねあう。腰を押し付けながら、政宗が服を掻き分けて中に手を差し入れる。しかし元親は力の入らない手で難なくそれを捕まえ、引きずり出した。そしてシンクの上に置かれていた花束を握らせる。 「おいチカ、てめえ…」 百年の恋が一瞬の内に冷めたような表情で政宗が呟く。 「お前のせいで腰に力が入りゃしねえ。責任とってお前が代わりに水に浸けろよ」 「花なんざ後でいい。今はこっちだろ」 懲りずにまた口付けてくる政宗を押しのける。こういう場合の対処法を元親は熟知していた。意識して口角を上げ、挑発的な笑みを浮かべる。 「別にこれで終まいだとは誰も言っちゃいねえぜ?ちゃんと終わったら相手してやる。な?」 元親の確信的な台詞に、政宗は舌打ちをするしかないようだった。自分が乗せられている事に気付いているのだろう。しかしそれでも乱れた襟元を直し、腕を捲くる動きはどこか浮ついているように思えた。 「……Okay,darling.その代わり覚悟しとけよ?俺を顎で使った代償はでかいぜ」 「おう、分かってる。だからさっさと働け」 政宗は不機嫌な顔で勢いよく蛇口を捻ると、花束の包装を取り始めた。元親はそのまま床に座り込み、作業の音に耳を済ませる。もうじきシンクに水が溜まり、鮮やかなバラが活けられるだろう。それまでの時間を、こうして穏やかに待つことも悪くはない。 (08/1205) |