モーニング・アフェア


「よし、出来た」
「Thank you」

恋人の首下に綺麗にネクタイを結び、元親は仕上げの合図とばかりに軽く政宗の肩を叩いた。一応の確認のためにチラリと鏡に視線を走らせた政宗が、今度は自分の番だと元親の糊の効いたワイシャツにネクタイを通す。
毎朝必ず行われるこの儀式が済み、一歩この部屋から外に出れば二人は大企業の社長と、そこで働く一社員と云う普段の姿に戻らなければならない。初めはそれを悲しく感じることもあったが、二人の間の空気の密度が高まるにつれて今ではそれも平穏な日常に刺激を加える一つの楽しみとなった。
時間だぜ、と左手首に嵌まった銀の文字盤を見つめて政宗が呟く。二人はソファの上に放り投げられたそれぞれの鞄を手に掴むと、玄関で黒光りする革靴を履き、扉のノブに手を掛けた。
生まれたばかりの透明な空気の中に二人で足を踏み出し、エレベーターに乗って黒塗りのハイヤーの中で待つ小十郎の元へと向かう。

「おはようございます、政宗様。…と、坊や」
「相変わらず早えな、小十郎」
「よう片倉さん。毎度言うのも何だがよ、いい加減その呼び方止めてくんねえか?もう坊やって歳でもねえんだが」
「坊やは坊やだろうが」
「相変わらず日本語が通じねえ人だな。…って、うわっ、引っ張んなよ政宗」

先に車の中に乗り込んだ政宗が、さっさとしろとばかりに元親のスーツの袖を引き、自分の隣へと引き込む。タイミングを知り尽くした小十郎が、元親の足が完全に中に入ると同時に車のドアを自動で閉め、適切な深さでアクセルを踏み込んだ。緩やかに加速し始める車を革張りの椅子の下で感じながら、元親は未だ掴まれたままの腕を解く。

「ちったあ待ってくれてもいいだろうが。まだ出社するまでに時間あるだろ」
「No,待てねえな。今日はまだいつもの挨拶が済んでねえだろ?」
「お前まだ寝ぼけてんのか?目ぇ醒めてすぐ言ったじゃねえか」

今日は珍しく元親の方が目覚めるのが早かった。隣で藍色のシーツから裸の肩を出す男の頭を指ですき、その瞼が開くのを見つめて目覚めの挨拶を交わしたのはつい一時間前だ。 何を言うのかと元親が訝しんでいると、銀の文字盤の嵌まった腕時計の手が元親の紺のネクタイを掴み、自らの方へと引き寄せた。反動で軽く開いた唇が政宗のものに塞がれる。

「…っ……」

すかさず分け入って来た舌は難なく元親のものを捕らえ、唾液の混じった水音を立て始めた。朝から感じるべきでない類の痺れが背筋を這い、思わず身震いする。政宗がそれを高めるように腰の上に添えた手をゆるりと回すと、疼きは益々酷いものとなった。
しばらく互いに夢中になって舌を絡め合ったあと、最後に下唇を軽く噛んだ唇が、唾液の糸を引いて離れていった。潤み始めていた元親の赤い目元を、政宗が穏やかな動作で撫でる。

「おはようのキスがまだだったろ?」
「……お前、それ自分で言ってて恥ずかしくねえのかよ」
「いいや、ちっとも」

この蕩け切った目で自分の頬を撫でる男の顔を、まるで現人神か何かのように低頭して毎朝会社に迎え入れる重役どもに見せてやりたい、と元親は思う。
会社に居る間の政宗は、世間の評判通り正に"切れる男"だった。その研ぎ澄まされた神経と頭脳が導き出す経営方針には針の穴ほどの綻びもなく、政宗が社長に就任すると同時に会社の業績は一気に右肩上がりになった。経済雑誌の表紙にアップで飾られても何ら見劣りしない、冴えた造詣の顔立ちも今や会社の一つのシンボルとなっている。普段、経済といえば朝のニュースに差し挟まれる株価の連動ぐらいしか思い浮かべることが出来ない一般女性達でさえ、政宗が表紙に載った経済雑誌が発売された日には退社後に本屋へと立ち寄るらしい。

だがその恋人が男で、しかも政宗の会社で働く社員だと知る者は極一部に限られていた。しかも、その関係を知る政宗付きの秘書である小十郎と、元親の上司である元就もまた秘密を打ち明けられて知った訳ではなく、不幸なことにもある現場に居合わせたことによって知りたくもない事実を突き付けられたのだった。
場所は、社内の会議室。社長も交えた会議に入社したばかりの元親も参加していたのだが、会議が終了したあと元親だけ残されることになった。社長直々の命令に、何かへまをやらかしたのかと怯える元親を、元就が冷笑で見送り出してから十五分後のことだ。突然室内から何かを叩きつけるような凄まじい音が聞こえたのだった。
扉の外に控えていた元就と小十郎が何かあったのかと驚き、室内に飛び込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。倒れた椅子。円形の広い机の上に押し倒された銀髪の男。抵抗する相手を上から押さえ込む、この会社のトップであるはずの社長。
その眉を寄せ赤くなった顔と、忌々しげに舌打ちをする顔が同時に硬直する二人の方に向けられた時、その後者の男が吐いた言葉は中々に衝撃的だったと後に二人は語っている。

『邪魔すんなよ。口説いてる最中だってのが分かんねえのか?』

ニヤリと挑発的に呟く政宗の頬を、元親が懇親の力で殴り飛ばしたのは言うまでも無い。学生時代スポーツをやっていたらしい元親の強烈な右ストレートを浴びた男は、ふらふらと二、三歩よろめくと情けなくも尻餅をついた。脳が未だ揺れているのか、腫れた頬を押さえたままうずくまる政宗に、乱れた胸もとのシャツを直しながら元親が一言。

『出直してきな』

そう言い放ち颯爽に立ち去って行った背中を見送りながら、政宗がポツリと漏らした『……惚れ直した』の言葉に、何故か小十郎は涙が出そうになったと云う。
しかしその日の退社後、珍しく元就の方から誘った酒の席で、酔いのせいばかりでなく顔を赤くした元親が『俺、分からねえけど、マジであの時抵抗出来なかった。怖かったんだぜ毛利〜』と泣き付いてきたことは元就しか知らない出来事だ。

そのため、何故あの出会いが今の関係にまで発展したのか、と今では隠れて社長室の政宗に会いに行くようになった元親を眺めながら、元就が感じているのも無理はないのだった。




青々と茂った街路樹の間、会社から少し距離のある裏道に止まった車から元親が降りた。 同じマンションで暮らし、同じ時刻に家を出る二人だったが、元親のみが先に出勤し、政宗は時間を置いてから出社することになっている。社長である政宗の出社時刻が一般社員である元親より遅いためでもあったが、何よりも二人の関係を秘密のままにしておくためだ。
車内に残った政宗が、元親に話しかける。

「社長命令だ。今日は早く帰って来いよ。俺が久しぶりに手料理作ってやる」
「本当に久しぶりだな。そりゃ楽しみだ……って言いてえ所だが、お前社長だろ?それならウチの部長の毛利に何か言ってやってくれよ。あいつ俺が英語苦手なの知ってて、英語使う仕事大量に回して来んだぜ。お陰で最近残業ばっかりで、今日だって定時に上がれねえかもしれねえ」
「そりゃあチカの帰りが遅くなるのは俺だって困るが、そればっかりはチカが昇進して毛利の下から抜け出すしかねえな。幾ら社長だっつっても、部下に任せる仕事の種類にまで口出しする訳にはいかねえ」
「だろうなあ。まぁそれは言って見ただけだからいいんだが、それにしてもあいつ、今あの歳で部長だぜ?俺が部長に昇進する頃にはきっと奴ぁ幹部様だ」

政宗の会社は実力主義で、年功序列制を取っていない。そのため毛利元就は元親と同年代にも関わらず部長の地位に就き、敏腕を振るっていた。
このままずっと毛利の圧政に耐えなければならないのか、と肩を落とす元親を自らの方に引き寄せ、政宗はからかうように言う。

「なあ、手っ取り早く昇進する方法が一つだけあるぜ」
「……何だよ」

どうせ碌な考えでない事は分かっていたが、気になりはするので一応念のために訊ねる。

「アンタの恋人は社長だろ」
「ああ」
「じゃあやる事は一つしかねえ。ベットの中で上手におねだりしてみせな。そうすりゃ俺も機嫌が良くなって、チカを一気に幹部まで昇進させちまうかもしれねえ」
「そりゃあいい考えだな!…とでも言うと思ってんのか?どうせお前のことだ、何やってもまだ足りねえとか言い出すんだろ」
「よく分かってるじゃねえか。さすが俺のdarlingだな」
「抜かせ」

笑いながら言うと、元親は辺りに誰も居ないのを確認し、政宗の頬に軽く口付けた。小十郎が、またかと心底嫌そうな顔をしているのが目に入ったので、いい加減申し分けなくなった元親はすぐさま顔を離す。

「それじゃ、晩飯楽しみにしてるからな」
「任せとけ。チカもさっさと帰って来いよ」

扉が閉まり、車が走り出す。
元親はアスファルトを走り出した車が小さくなって行くのを認めると、踵を返し会社へと足を向けた。扉が閉まる直前に聞こえた、「小十郎、まだ時間あんだろ。夕食の材料買いに行くぞ」と云う政宗の言葉に自然と頬が緩む。
あの伊達政宗の趣味が料理で、しかもその腕が作り出すのは元親の好物だけだと誰が知っているのだろう。会社の連中も、政宗の雑誌を買いに走る女たちも知らないに違いない。

子供の様な優越感に浸る胸は、まだ朝だと云うのに早くも夕食への期待で高鳴り始めていた。



(08/0919)




フリリクで頂いた「社長政宗×平社員元親」でした。
リクエストありがとうございました!