天地を埋め尽くす対峙した異形の軍勢、唸り声を上げる金属の沈んだ輝き、身を振る度に生まれる全身の汗を大きく見開かれた眼球をこの世の物ならぬ幽火が照らし赤々と燃え立たせる。
戦場の数多の剣戟音と怒声を遠く背に受けながら、或る男が独り身を引きずるようにして暗闇の中を駆けていた。
時折崩れそうになる膝や荒い呼吸を繰り返す様はまるで病人のようだが、それ以上に奇異なのはこの男の外見だった。月を溶かし込んだような銀髪、紅と藍の双眸、どれも人間が持ち得るはずがない容貌を備えている。
ふと夜風に乗って戦場の匂いでも運ばれて来たのか、男が顔を上げた。
瞬間、静かに降り注ぐ月光に男の額で何かが光る。
そのうっすらと汗ばむ額の両端には紛れもない硬質の漆黒が―――異形の証、鬼の二本角が据えられていた。

男の名は元親―――日の本全土の鬼を統べる鬼の首領である。



鬼夜



刈り取る者もなく成長しすぎた草を掻き分け、元親は戦場から遠ざかろうとしていた。
本来ならば陣頭に立ち軍を指揮しているはずだったが、今の元親にその余裕はない。自分以外の全てから身を隠せる場所、本能のままに咆哮しようが誰にも聞こえない場所、ただそれのみを求め闇の中をさ迷い歩く。
(クソったれ、奴らどこから情報を仕入れやがった……)
胸の内でそう毒づき、視線を下げる。見れば、先程までは何の変哲も無かったはずの傷口が、今では赤く染まり禍々しく隆起していた。右腕に負った小さな矢傷。これこそが元親の神経を鈍らせる原因であり、今回の戦における唯一の誤算だった。







竜と鬼が対立し始めてから数百年が経つ。天近くに住む竜と地深くに住まう鬼は、人間たちの暮らす地上の影の領土を求めて丑三つ時になるとその姿を現す。古から続く一つの習慣として竜と鬼は代々当主を替えながらも刃を交え続けていたが、元親の代に来て両軍の疲弊は遂に限界に達し、戦は長いあいだ膠着状態に陥っていた。
何か良い案はないか。普段軍議の執り行われる大部屋に独り座り打開策を練る元親の衣は、派手な着物を好んで纏う中位の鬼たちとは違い、白と黒を基調にした地味な戦装束だった。しかしだからこそ其の落ち着いた色合いは色の洪水の下で余計際立ち、戦場に立てば遠くからでもその姿が見て取れる。上半身に着込んだ大きく胸元の開いた純白の直垂も、黒の戦袴にたなびく一筋の赤糸の雲文様も、元親自らが考案し作らせた気に入りの品だ。
その自慢の着物に影を落とし、夜な夜な煩悶する元親の下に諜報に遣わせていた小鬼からある日知らせが入った。
元親は間者の口から直接それを聞くなりでかしたと膝を打つと、手近な部下に命じてすぐさま自らの統べる鬼全てをこの地に集結させるよう命じた。
知らせを受けた鬼たちは直ちに頭領の居城を目指して白骨の牛が引く牛車で空を渡り、明くる日の夕刻には全てが出揃った。伝令通りに己が獲物を持ち、久方ぶりの召集に何か戦況に変化があったかと噂する鬼たちの顔は訝しげだ。広大な畳敷きの部屋の奥、赤い陣幕の下から白銀の髪を逆立てた元親が現れ声を張り上げる。

「よう、久しぶりだなおめェら!長いこと会っちゃいなかったが変わりはねえか?」
「大丈夫ですぜアニキ!」
「ずっとアニキに会えるのを心待ちにしてやしたァ!」

口々に上がる鬼たちの声に、元親が満足げに頷く。

「いいか野郎ども。ついさっき、俺らがずっと待ち望んでいた機会ってのがようやくこの手の中に転がり込んで来た。―――竜の長が倒れた。あの爺ようやくお迎えが来たみてえで、もう布団から起き上がることもできねえようだぜ」

場内のどよめきが大きくなり、鬼たちは信じられないとばかりに顔を見合わせる。
竜の寿命は鬼よりも長い。そのためごく稀にある戦場での討ち死にでない限りその死に鬼たちが出くわすことはまず有り得なかった。その上、竜は秘密主義であり堅牢な城壁から外部に情報が漏れることは滅多にないため、戦が始まって以来数百年間、長が代替わりするという情報は一度としてもたらされたことはない。
驚きに目を見張り、鼻先に蘇る戦場の香りに昂揚し始める鬼たちに対し、その視線の先に立つ元親はこれと言った変化を見せなかった。動じている風でもない。しかしどの鬼たちも臓腑の奥底で理解していた。自分たちの総大将はその体躯の内に溢れるばかりの覇気を持った男だ、今にも紅と藍の異眼に闘志を浮かべ自分たちの士気を鼓舞させるに違いないと。
それを予感させるように、元親の言葉の端々に炎が灯る。

「しかもだ。奴ら前々から次の当主は決めてたようだが、竜特有のあの馬鹿に畏まった新当主就任の儀式のせいで、正式な長が立つまでにあと二日掛かるらしい。つまり、そのあいだ奴らの長は不在ってことよ。こう云う状況はこれまでにも有ったかもしれねえが、だが今回ばかりは訳が違う。今までと違って、俺たちはその情報を掴んでる。……どうだおめェら、何か感じねえか?俺はこれを聞いてからずっと感じてんだ、俺たち鬼の大願が遂に成就する日が来たってことをよう!」

堰を切ったように次々と歓声が湧き起こり、どこからともなく始まった元親の名を呼ぶ声は次第に大きな津波となってやがて場内を埋め尽くした。来るべき戦への期待と、自分たちの総大将の燃え立つ瞳が余計群衆の声を大きくさせる。割れんばかりの声援に包まれた元親の頬は松明に照らされ、金粉を撒いたように輝いていた。

「今晩、全軍で奴らの城を攻める。今日おめェらに集まって貰ったのもそのためだ。新当主就任の祝いに色めき立つ奴らの隙をつき、嵐みてえに全部喰らってやるのよ。いいか野郎ども、鬼の誇りに賭けて一度奴らの喉笛に喰らい付いたら二度と離すんじゃねえぞ!今晩だ。今晩全てを決める!」

遂に室内の熱気は頂点に達し、鬼たちは叫び声を上げながら逸る気を抑えるように身体を揺らした。床を叩く鋭い爪の足が地響きを作り出し、戦場の太鼓に似た音を打ち鳴らす。その響きは遥か地上まで届き、畑を耕す人間の手を思わず止めさせるほど凄まじいものだった。
元親は早くも勝利を確信していた。兵たちの士気は充分、己の獲物も早く夜天の澄んだ戦場の気を味わいたいと啼いている。今晩は竜の首級を幾つ上げられるだろうか。
しかしその後、元親の確信は脆くも崩れ落ちることになる。情報が誤りだったのではない。兵たちに油断があった訳でもない。
全ては元親の死角を縫うように飛来した一本の弓矢―――その矢尻に塗り込められた"毒"が原因だった。




(08/0905)




戒菜さんから頂いたリクエスト、竜鬼です。
政宗のまの字も出てこなくて申し訳ないです。もうしばらくお付き合いください。