降り注ぐ矢の豪雨も、竜の振るう牙の白刃にも怯む元親ではないが、ただ一つこの世に恐れるものがある。 それが神便鬼毒酒という名の神酒だった。 この酒は人間が飲めばたちどころに力を得るが、鬼が飲めばその力を封じ込めると云う恐ろしい代物であり、かつて元親は一度だけこの酒を飲んだことがある。 それは鬼退治にやって来た山伏に騙されて一口飲んだだけだったが、それでも神酒の効果はてき面であり、元親は三日三晩の間ろくに動くことも出来なかった。 この神酒の存在は元親たち鬼の唯一の弱点であり、特に竜相手には決して知られてはならない秘密だ。幸いこの神酒は山伏たちの間にのみ伝わるものであり、その製法の秘術も彼らしか知らないため、神酒の存在がこれまで竜の耳に入ることは無かった。 しかし、元親が先程戦場で受けた矢尻には間違いなくこの"毒"が塗り込められており、最早それが竜にも知られた事は明らかだった。傷口から淡く漂う、神酒独特の甘い芳香が紛れもないその証拠と言える。 ただ妙なのは全身を襲う毒の症状だ。以前は骨の芯まで響くほどの激痛があったにも関わらず、今度の場合は痛みの代わりに異常と言えるほどの倦怠感と身体の火照りがあった。吐く息も荒く、五体も満足に動かせない。 しかし症状の如何に関わらず、毒を受けた事実に変わりはない。一度体内に取り入れれば解毒方法などなく、ただひたすら体内から毒素が抜け落ちるのを待つしかないと云う事を元親は過去の経験から良く熟知していた。 そのために、今は何処か身を隠せる場所を見つけ、体力が回復するのを待つ必要がある。そして一刻も早く、今もなお竜と刃を交えているはずの部下達の元に駆けつけねばならないと元親は急いていた。 (早く…あいつらの所に戻らねえと……) 敵味方の判別もつき難い混戦の最中に矢を受けた元親は、仲間達に一言も話すことなく戦場を後にしていた。今は早く身体を直すことが第一だと頭では理解していても、心が付いていかないのだ。頭の片隅には常に、元親を信じ、一片の疑いも持たない眼で自分を見つめる手下達の姿がある。それが失われる事だけは何としてでも避けなければならなかった。 自分が居なければ彼らが居ないように、また彼らが居なければ自分も存在する意味ないのだ。 手下達思う一身で懸命に重たい身体を引きずる元親だったが、しかし徐々にその身体にも限界が訪れようとしていた。 こめかみから滲み出た汗がつうと伝わり、首筋まで垂れる。ぞくぞくと背筋を焼く、痺れる様な感覚に元親の思考は既に霞みかけていた。 遂に足を上げることも出来なくなり、その場に立ち尽くした元親の耳の付け根を夜の冷気が撫でる。辺りには風で草の擦れる音と、虫の鳴き声、荒い自身の呼吸しか聞こえない。 (―――やべえな) 眼前に広がる闇が濃度を濃くして行き、元親は自らの意識が薄れ始めたのを悟る。しかし捉え所の無い闇の前には如何なる抵抗も無力だった。 だが、視界が閉じかけた寸前―――草に隠れるようにして一軒の小屋が立っているのが目に映った。 ……幻覚か。都合よくこの草深い中に人家があるはずもない。 そう思いながらも、遠のき掛けた意識を懇親の力で引き寄せて目を凝らしてみれば、それは幻覚などではなく本物の実在する小屋だった。住民が放棄してからどれ程の時が経ったのか、壁板が朽ち掛けてはいるが身を隠すには充分の古小屋。 神仏の加護のなどない鬼でも、思わず今夜ばかりはその類いに感謝したくなった。訪れた幸運に、再び足に力が戻って来たのを感じる。元親は足を踏み出し、草を掻き分けて行った。目指す古小屋は、月を背負い黒々とした影の中に溶け込んでいる。 ** 室内は思いのほか荒れていなかった。まだ残っている茅葺きの屋根が雨風を防ぐからか、外に比べて内部は人の住める状態を保っており、身を休めるには充分のように思える。それまで用心深く神経を尖らせていた元親は密かに緊張を緩め、一歩土間の土を踏み締めた。 限界だった。その体内では熱の濁流が渦巻き、未だかろうじて思考を続けている意識も杭に掛かった葉の様に今にも押し流されようとしている。 元親は疲れに足を引き摺りながら、身体を床板の上に横たえようと土間の中を進んだ。が、―――瞬間、動きを止める。 跳ね板の嵌まった窓から射し込む月光も届かない部屋の隅、そこにたたずむ闇が蠢き、あろうことか紫煙を吐き出したのだ。 ―――敵か。咄嗟に身構え、臨戦態勢を取る。しかしその息は荒く、この鬼が弱りき切っていることは見るも明らかだった。戦える自信は無かったが、それでもやらなければならない。戦場では今も鬼達が自分の帰りを待っている。 だが睨みすえた影の中から現れたのは、若い男だった。銅を煮詰めたような深い茶の髪、その毛先が僅かに乗っている漆黒の羽織、濃紺の着流し。何よりも印象的なのはその眼だ。濡れ羽色の闇が眼球の中に嵌まり、星の光も全てを飲み込んだ黒が身を横たえている。嵐の前の静寂を思わせる、危うい目だ。 夜の色を身に纏った男は、手にした煙管を口に咥え蒼闇に浮かぶ煙を作り出した。 「こんなあばら家にまで月見に来る奴なんざ俺以外に居ねえだろうと思ってた、が―――。アンタも随分物好きらしい」 触れれば切れそうな造りの顔立ちに、含み笑いが良く映えている。 元親が危惧していたこととは違い、男はどうやらただの人間らしかった。その証拠に男の側頭部には竜の証で角が生えておらず、普通の人間となんら変わりなく耳が備わっているだけだ。何よりも、元親がこうして生きているのが証拠だ。見るからに弱っている敵の頭領を前にして功績を棒に振るような輩は存在しない。 まだ気を緩めず注意深く男を観察しながらも、元親は素早く額の異形の証である角を消した。これでこの男からは元親が人間にしか見えないだろう。 「アンタも月見か?」 涼しげな目元がついと細められ、煙を吐き出す。 「生憎と俺は大人数で騒がねえと、満足できない性質なんでね。酒もねえってのに、一人で月見なんか出来ねえよ」 「こうして煙草を吸いながら見る月ってのも良いもんだぜ」 「煙草もやらねえんだ」 「つまらねえ奴だな」 「何とでも言え」 再び沈黙が訪れる。しかしその静寂は気不味いものではなく、長い付き合いがあるかのような親しげな静けさだった。初めて出会ったというのに、どうやらこの男と自分は波長が合うらしい。この様な状況で会うのでさえなければ、恐らく自分たちは種族が違うと云えども良い関係を築けただろう。 この様な状況でさえ無ければ―――。 「―――ッ!」 勢いを増して来た毒に、心臓がどくりと跳ね元親は喉を仰け反らせた。 自分には悠長に会話をする時間などない。こうして刻一刻と過ぎ去る間にも、仲間達が戦っていることを忘れてはならないのだ。 元親は一度眼を閉じると、表情を厳しいものに改めた。男を此処から追い出さなくてはならない。男には悪いが、人間と云えども弱った自分の側に他人を置くことは出来なかった。 「―――突然ですまねえが、アンタには今すぐここから出て行ってもらう」 「おいおい確かにここは俺の家じゃねえが、だからってアンタに指図される謂れはねえぜ。何で俺が出て行かなくちゃならねえ。先に此処を見つけたのは俺の方だ」 「だからこうして頼んでんだろうが。大人しく俺の言うことに従っときな。さもねえと―――」 しかし突如込み上げてきた衝動に、元親はその先を続けることが出来なかった。腰から脳天に向けて得体の知れない悪寒が走り抜け、声も無くうずくまる。地に着いた手足が土に汚れようが、今はその様な些細な事を気遣う余裕など元親の中には存在しなかった。 何かが可笑しい。元親は懸命に得体の知れない声が突いて出そうな口を押さえて思う。この背筋が痺れるような感覚、これはまるで、 「おい、大丈夫か!?」 元親の行動を不審に思ったのか、男が土間に降り立ち俯く元親の顔を見ようとその顎に手を掛ける。 「く、ぅ―――ッ!」 それだけで、腰が波打ち爪先が反り返るのを元親は信じられない思いで感じた。自らの意思に反し、暴走し始める身体に瞬時にしてある答えに到達する。 ―――間違いない、毒の正体は姦淫剤だ。これまで不明瞭だった毒の正体がようやく分かった気がした。 身体を這い回る熱。痺れ。何故そんな物が自分に打ち込まれたのかは分からないが、そうでなければ男の指が肌に触れただけで快楽を得るなどあるはずがない。 顔を赤くしたまま動こうとしない元親の意識を確かめようと、ゆるゆると頬を撫でる骨ばった指先の感触に、未だ戸惑いの中にある精神を置き去りにして震える声を出そうとする自らの唇を固く噛み締める。 (っ、…く、…あっ……あ…) 相手はただ純粋に元親を気遣っているだけにも関わらず、情けなくもその動作の一つ一つに欲情している自分に堪らない羞恥を覚えた。自己嫌悪と快楽に揺らめく顔をその真摯な眼差しに見られていると思うと、このまま男の指先で蒸発して消えてしまいたくなる。 大きく上下する胸や、伏せられた瞼が汗をかいてじっと濡れていく様を男はしばらくの間見つめていると、突如その薄い唇を弓月の形に引き裂いた。 「アンタ、此処に何しに来た?」 先程と同じ問い掛けを疑問に思う間もなく、無遠慮な手が黒の戦袴の股ぐらを掴み、元親は音の無い悲鳴を上げた。 「はは、すげえ勃ってるな。まさかこんな辺鄙な所までわざわざマス掻くために来たのか?ご苦労なこった」 「なっ、違え…、あっああっ!」 布越しに逸物を擦り上げられ、耐え切れなかった嬌声が唇の端から漏れる。瞬間濃度を増す顔の赤味が面白かったらしく、男の指の動きが早くなった。 ひどく過敏になっている身体はもどかしい刺激さえも執拗に拾い取り、甘く脳を揺さぶり元親を追い立てる。見ず知らずの男にされるが侭になっている今の状況に屈辱さえ感じているというのに、五体の端々で弾ける感覚の前には強靭な意志もただ屈服させられるしかなかった。 「ふっ……んん…んうっ……!」 歯を立てた袖が唾液を吸い込み、色を濃くしていくに連れて腰に灯った炎が大きくなって行く。徐々に下衣が粘ついた水音を立てて行き、元親の聴覚を犯そうとするのを首を振って拒んだが、あっさりと音は鼓膜に忍び込み瞬く間に脳内を支配した。 「ずっと出したかったんだろ?俺が手伝ってやるからさっさと素直に出しちまえよ」 「んっ、んん……はな、せっ……ぅんっ」 喉奥で嗤う男の声が脳内で反響し、その深い低音が先駆けとなって視界に白い光を導き出し元親を高める。訪れた痺れに耐え切れなかった元親は、遂に掲げた腰をぶるりと揺らし精を吐き出した。 (あっ、……ちくしょ、……ッ!) 下肢がじわりと濡れた感覚に包まれて行き、思わず元親の瞼から快楽の証とも悔しさによるものとも取れる涙が一粒零れ落ちる。しかし、それでもたったいま精を放ったはずの芯は未だ萎えず存在を主張し続けていた。 頭をもたげたままの熱を弄ばれる度、反射的に身体を丸めようとする元親の耳へと男が顔を寄せて濡れた息を吐きかける。 「まだ足りねえようだな。扱かれてる時のアンタのツラ、気に入ったぜ。相手してやろうか?」 「はっ、……あッ…死んでも……御免だ…」 身体がこれだけでは満足していないことは元親自身もよく分かっていたが、それでもこれ以上見ず知らずの他人にいい様にされることは元親の誇りが許さなかった。目元を情欲に染めて荒い息を吐きながらも、決して光を失わない眼が男を睨み上げる。 男はその強烈な眼差しに無言で喉を鳴らし、嗤った。そしてすぐさま黒袴の帯へと手を掛け、日に焼けない下肢を月明かりの下に晒す。露出した肌を撫でる冷気に元親の顔が青褪めた。自らの態度が男に火をつけたのは間違いなかった。 (08/0917) |