スコール
降り注ぐ雨が、穏やかに鼓膜を叩いている。 (あー、携帯忘れちまった……) 元親はようやく携帯を探すのを諦めると、鞄の中から手を引き抜いた。半袖のカッターシャツから突き出た腕は白く、日に焼けることを知らない。 駅のホームに立って突然の雨が止むのを待つ人々は、みな同じように灰色の空を見上げている。元親もそれにならって首を上げてみたが、雨が当分降り止みそうにないことが分かっただけだった。信号機の明かりや、人々の持つ色とりどりの傘の輪郭は雨に溶け出し、街は抽象画のように色彩であふれ返っていた。 携帯を忘れてしまっては、迎えを呼ぶことも出来ない。かといって家の戸口を目指し、ずぶ濡れになって街を走り抜けるのも御免だった。さてどうしたものかとポケットに手を入れてぼんやり考え込んでいると、目の前に透明のビニール傘をさす人影が立った。 「思ったとおりだぜ。どうせ天気予報見てなかったんだろ」 慌ただしく通りを行く人々を背に立つ政宗は、人ごみの中に白く浮き上がっているように見えた。驚いた元親が大きく目を瞬かせると、政宗がおかしそうに笑う。 「図星か?」 「政宗―――。なんでお前がここに居んだよ。今日先に帰ったはずだろ?」 「ああ帰ったぜ。けどマンションの扉開けた途端、雨が降ってくるもんだからよ。そういえば誰かさんが傘持ってなかったの思い出して、結局引き返しちまった」 早く入れよ、と政宗が右手の傘を持ち上げる。元親は顔を蕩けさせると、弾む足取りで恋人の隣へと滑り込んだ。 人気のない住宅街の中を、二人は傘の下で身を寄せ合いながら歩いた。時折ぶつかる肩は、触れるたびに瞬間的な熱を生み、胸を騒がせる。 「なーにニヤついてんだよ」 「あん?別にいいだろ、なんか嬉しいんだよ」 背丈のある自分の方が傘を持った方がいいと元親が主張するのにも関わらず、政宗は頑として譲ろうとしなかった。互いの顔がよく見えるよう、政宗が右、元親が左に並ぶのは二人の暗黙の了解になっている。それに逆らってまで、今日の政宗は元親の左に並び、少し持ちにくそうに腕を上げて傘を掲げていた。その政宗の小さな意地が元親の胸を甘くすぐるので、どうしても頬が緩むのを我慢できない。 元親は政宗が時折見せる子供のような部分が好きで仕方なかった。本人に教えてやるつもりはない。 教えた途端、たちの悪い笑みを浮かべて反撃に出て来られるのを避けたいのもあるが、それ以上に自分一人だけの秘密にしておきたかった。政宗の可愛いところを自分だけが知っているという優越感は、中々心地がいい。政宗は自分がこんな風に考えていることを知らないのだろうと思うと、元親はいつも照れくさい気持ちになる。 「なあところでよ」 「んだよチカ」 「さっきから思ってたんだけどよ、なんでマンションに一回帰ったんなら、もう一本傘持って来なかったんだ?この前、俺政宗んちに傘忘れてったじゃねえか」 あれ持ってくりゃ良かったのによう、と元親は首を曲げ、傘からはみ出して濡れてしまった政宗の肩を覗き見た。ただでさえ元親は人より身幅があるのだ、男二人で一つの傘に入るのは少々無理がある。だというのに、政宗は元親が濡れてしまわないよう傘を右側に寄せてくるのだから、入れて貰っている元親としては申し訳なくて仕方ない。すると政宗が元親の方に顔を向け、わざとだっつうの、と愉快そうに呟いた。 「俺がチカと相合い傘してみたかったんだよ」 「ば、馬鹿かテメエ!?」 「Ah〜、馬鹿に決まってんだろ。俺がチカ馬鹿だっつうのは自分でもよーく分かってんぜ」 急に正面へと顔を向けなおした元親が面白かったのか、政宗は喉の奥で低く笑い声を上げた。…男二人で相合い傘。改めてこの状況を理解した元親の頬が、薄く染まった。その一昔前の少女漫画のような言葉の響きは、普段"男らしさ"を強く意識している元親にとって恥ずかしすぎる。別に照れる必要はないと自らに言い聞かせるのだが、それ政宗相手となればどうも上手くいかない。 頬の熱が雨で早く冷やされてくれるよう祈りながら、元親は誤魔化すようにわざと乱暴な口調で言った。 「ふざけたこと言ってんじゃねえよ。つーかよう、お前自分で言ってて恥ずかしくねえの?相合い傘してみたかったとか、今どき女だって言わねえぜ」 「別に恥ずかしかねえな。いいじゃねえか、相合い傘。こう狭いと、こうやって身体が引っ付いちまうのも仕方ねえしよ」 からかうように身を寄せてくる政宗に、元親は大げさなほど身体を跳ねさせた。 「なにすんだよ!誰が見てるか分かんねえじゃねえか」 「見ての通り誰もいねえけどな」 「……うるせえ」 何も言い返せない元親は、視線を落として絶え間なく水が流れるアスファルトを見つめた。政宗と出会って以来、自分はこうやって目を伏せることが多くなった気がする。突然ストレートに向けられる政宗の愛情に、自分はいつも動揺し、その度にこうして目を伏せるのだ。まるで突然の嵐に見舞われたかのように、身を縮めて揺れる自分を感じていることしかできない。今までは少々の風では揺らぎもしなかった自分という存在が、政宗の手に掛かるといとも簡単に突き崩されてしまうのだ。しかしまた、それが決して嫌ではない自分が存在していることも、元親はよく知っていた。 本当に、この男はたちが悪い。 元親は少し落ち着こうと、大きく息を吸い体内に冷えた空気を送り込んだ。 その瞬間を狙い済ましていたかのように、政宗が何でもないような調子で言った。 「雨、当分降り止みそうにねえな。このままうち来ねえ?」 湿った空気の中に夜の匂いを感じた元親は、密かに息を呑んだ。思わず覗いた眼帯の下に緩く持ち上がった唇を認め、心臓が大きく跳ね上がる。 「……いいぜ」 緊張した声で元親がなんとか応えると、政宗が再び身体を寄せてきたので肩といわず腕までもが触れ合った。その確かな感触に頬の色が一層赤味を増す。元親は縫い付けられたように正面を向いたまま、腕に触れる政宗の体温を感じていた。その仄かな温度に、意味もなく走り出したくなる。 「チカ」 「……おう」 「服が濡れちまってさみぃ。部屋着いたらあっためてくれよ」 「どういう意味だよ、それ!」 「何ってそのまんまの意味だぜ?」 目尻を細めていやらしく笑う政宗に、元親は反射的に文句を言おうとした。しかし、傘を握る指が寒さに震えているのに気付いてしまえば、その生意気な表情さえも愛しいとしか思えなくなってしまう。そんな風に強がって余裕ぶろうとするから、元親はますます政宗から離れられなくなるのだ。 「……考えてやってもいいぜ」 目を見開く政宗の頬に手をあて、素早く口付ける。政宗は一瞬固まると、不覚だとでもいうように早口で英語を呟いた。その意味は分からなかったが、照れくさそうに手で口を覆う政宗に、元親の心臓は速度を増すばかりだった。 二人が部屋に着くまでにはあと少し。元親が政宗の胸に耳を当てて、自分と同じ嵐のような鼓動を耳にするのもあと少しだった。 (08/0615) |