脳裏に焼きついて消えない光景がある。
あれは夕日が燃え尽きる瞬間、無機質な死体が転がる戦場だった。昼と夜の境目。生と死の狭間。
何度もその光景を思い出しては、やはり今日も言葉を失い、ただ無言で立ち尽くす。


夕焼けの残像




「政宗が武田から帰って来ねぇんだよ」

元親がふて腐れた表情で呟いた。そのようなことを我が知るものか、ただでさえ貴様は図体がでかくて居るだけで目障りなのだ、これ以上我を煩わせるな、少しぐらい黙っていろ。その全てを険悪な瞳一つに込めて、じろりと元親を睨んだが、奴はへらりと笑ってそれをかわした。元親のくせに生意気だ。

「そう怖い顔すんなよ、たまには俺の愚痴ぐらい聞いてくれたっていいだろ」
「なぜ我がそのようなことをしてやらねばならぬのだ。くだらぬ。どうせ奴のことよ、真田との一騎打ちに夢中になっておるのだろう」

やっぱそうだよなぁ、と元親は右目に掛かった前髪を後ろへ払いのけた。指の隙間から端間見えた瞳が寂しげに歪んでいたのに気付かないふりをしてやる。だいたい貴様が愚かなのだ。そんなことで思い煩うくらいなら、奴に直接言ってやればいい。真田のところに行くな、ずっと自分の側に居ろ、とでも馬鹿げた睦言を。そうすればあの軽薄そうな顔の男も鼻の下を伸ばして、元親をこれ以上ないほど甘やかすだろうに。実にくだらぬ。
それでも、そう我が侭を言わない元親に少しの安著を覚えている。どうせ今頃その皺の少ない脳味噌の中で、でもあいつらただの好敵手だし、それ以前にあいつら男同士じゃねぇか、普通そんな心配する必要はねぇだろ、などと自己嫌悪に陥っているに違いない。哀れな男だ。そう心底から侮蔑の気持ちと共に思うのに、それでもこの男から目が離せないのはなぜか。なぜ眉間の皺が少しだけ解けるのか。
それはきっと、元親の中に変わらない気質を見出すから。かつての弥三郎の姿が元親に重なるからだ。あの頃の元親は、ひどく大人しい優しい少年だった。思い出す度に当時の自分を殺してやりたくなるが、どんな姫よりも儚げだと本気で考えていたこともある。姫が傷つかずに済むのなら、どんなことでもしてみせると幼心に決心していた。その日に透ける透明な頬を見つめるのが好きだった。鳥の産毛のように柔らかな睫毛が、そっと伏せられる瞬間が好きだった。
けれど、あの日を境に弥三郎は永遠に姿を消した。あの燃えるような夕焼け、血と硝煙の匂い。風が鳴り、大地は悲しみに赤く濡れていた。世界は彼の死を嘆いていた。今でもありありと覚えている。あの日の夕焼け、あの日の空気、あの日動かなかった唇。瞼の裏に焼き付いて、消えない。
忘れることなどできないくせに、そんなことをまだ覚え続けている自分をおぞましいと思う。彼は去ったというのに、なぜ未だ感傷に囚われるのか。なぜあの夕日が忘れられないのか。何度も自分自身に問いかけ、その度に落胆と共に一つの答えに辿り着く。
元親の中に未だ弥三郎が住み続けているなど、決して認めたくない。鬼の中にあの優しい姫が生きているなど、なんという皮肉だろう。
あの日々の面影など全く残していないくせに、ひどい男だと思う。松寿丸、といつも嬉しそうに名を呼んでいたくせに。私の友達は松寿丸だけよ、と優しく微笑んでいたくせに。 弥三郎の眠った顔、哀しげな顔、笑った顔。口元が残酷に歪むのを止められない。あの日動かなかった唇が、真横に引き裂かれて弧を描く。

「それほど思い悩むのなら、元凶の真田を殺せばよいではないか」

意識して声を潜め、そっと囁きかける。密やかに、誰にも悟られぬよう、声を落として。
元親が首を縦に振ればいい。槍を握る残忍さで、無邪気な子供のように、そうだな、と微笑めば。
元親が笑った。勝った、と暗い歓びに身体が震えた。

「んなことできる訳ねぇよ。政宗にとっての幸村は、俺にとっての元就みてぇなもんだろ。殺すなんてできるかよ」

困ったこと言う奴だな、いつもはそんなこと言わねぇくせに。今日はどうしたんだよ、何かあったのか?元親が眉を下げて困ったように笑う。
溢れてしまう。零れて、止まらなくなる。逃げるように目を閉じたが、逆流する感情を遮ることはできなかった。鮮やかにあの日の光景が甦える。視界が赤く染まる。冷たい風が髪を揺らすのを感じた。身体が鉛のように重く、指先さえピクリとも動かない。
自分から少し離れた距離、赤い大地に一人の青年が立っていた。頬の線に丸みがあり、未だ少年の面影を残している。
呆然と見つめる先で、青年は動かなくなった男から槍を引き抜いた。風が吹き、腕を通さない紫の袖が茜色の空に美しい軌跡を描く。青年の後ろで燃える夕日と、紫の対比があまりにも美しくて、とても現実とは思えなかった。夢を見ているのだ。そう思考を止めたまま考えるが、ゴボリと死体の傷口から溢れる血の音は、夢にしては余りにも生々しすぎた。
これは誰だ。この見覚えのある銀髪を揺らし、見覚えのない藤色の戦装束を着る男は。
嗚呼、それでも自分は彼の正体を知っている。花と、笑顔と、温かなものが似合う、彼の本当の姿を。
青年は項垂れ、足元の死体を見下ろしている。
何か声を掛けなければ。急げ、急げ、でないと彼が―――。気持ちばかり堰きたてられるが、唇は氷ついたように動かない。それでも必死に何か言おうとする自分をよそに、彼はこちらに気付いて振り向くと―――困ったように笑った。





弥三郎。気付けば昔の彼の名を呼んでいた。弥三郎。確かめるように何度も繰り返す。これがあの日探していた言葉だ。あの日自分が呼べば、彼を引き止めることができたかもしれない名前だ。傲慢かもしれないが、それでもそう思えてならなかった。あの日以来ずっと後悔し続けている。
元親が、何だよ急に、と怪訝そうな顔をする。その瞳に、困った奴だな、という思いが見て取れるけれど、それも今は気にならない。今はただその体温に触れたかった。
昔のように柔らかく微笑んで、名前を呼んで欲しい。私にはあなただけ、と淡く微笑んで昔の夢を見せて欲しい。
震える右手が元親の頬に届く寸前。

「アニキー!奥州から文が届きましたぜ!」

ドタバタと忙しない足音が響き、廊下を駆けて来る。その声に元親は、本当か!?と叫ぶと、勢い良く立ち上がった。わりい、ちょっと待っててくれ!と言って慌ただしく部屋を出て行った。
元親が去った空間で、呆然と自分の右手を見つめる。いま自分は何をしようとした。いったい、自分は何を。―――恥を知れ!
突然羞恥が込み上げてきて、伸ばした右手を強く握り締めた。両手を重ねるように、左手で覆う。心臓がどくどくと音を立ててうるさかった。久しぶりにこんなに早く刻む鼓動の音を聞いた気がした。
どうかしている。疲れたように、両手で顔を覆った。目の神経がじんじんと熱を持って痛んだ。今日の自分は元親が言う通り、どこかおかしい。
一つ溜め息をついて、身体から力を抜く。彼の名は元親で、弥三郎ではない。そしてもう、自分のものではないのだ。
深い悲しみと共に、そう悟った。あの夕焼けは、今度こそ永遠にどこかへと失われるのだろう。
元親が戻るまでに、いつもの冷徹な自分に戻らなければならなかった。彼は奥州からの文を右手に握り締め、さっきまでの不機嫌も忘れてこの部屋へと入ってくるのだろう。そして、政宗からだ!と嬉しそうに叫ぶに違いない。それに自分はいつも通りの冷めた視線で返すのだ。
夢中で恋人からの手紙を読み耽る元親の様子を想像する。その横顔を見つめながら、きっと自分は得体の知れない、少しばかりの寂しさを覚えるのだろう。そう、それでいい。全てはそれでいいのだ。もう、あの日の姫はどこにもいないのだから。



(08/0401)




元就は姫若子が初恋でした…な話。 姫若子は西海の鬼になって、それと共に元就の初恋は終わったんだけど、今でも元親に昔の面影を見てドキッとしちゃうっていう。
でも二人は基本いい友達です。腐れ縁ともいう。